先日、コピーライターの糸井重里さんの「黄昏」という対談記事を読んで思ったことがあります。以下、記事抜粋。
『子ども連れでキャンプに行ったんですけど、小学生の3、4年のころだったかな。バスでみんなで帰ってきて、さあみんな解散だっていう直前になって、子どもがぼろぼろ泣き出したんですよ。「どうしたんだ」って訊いたら、「わからない」って言うんです。あの感じは、オレ、親だからというのもあるけど、そうだろうなと思った。なにかが終わっていく、別れていく。簡単なことばで言っちゃうと、「祭りのあと」なんでしょうね。』
自分が小学4年生の時、終業式の後涙があふれて止まらなかったことがありあます。
その時の感情は、つらいでも悲しいでも悔しいでもなく、何で泣いているのか自分でもわからず、整理のつかない気持ちを振り払うように走って帰ったことを覚えています。
家に着いても涙は止まらず、恥ずかしいので親に会わないよう急いで自分の部屋に行こうとしたら、母親に止められ、「どうしたの?どうして泣いてるの?」と聞かれました。
でも、どうして泣いているか自分でもわからないので、答えられませんでした。
すると、「~先生が転勤するから?」「~君と遊べなくなるから?」「~ができなくなるから?」次々聞かれるのですが、どれも違うので、「違う!」と叫んで部屋に逃げ込みました。
この時のことは、大人になってからも時々思い出すことがあります。
なぜあんなに泣いたんだろう。
先生を特別慕っていたわけではないし、親友もいなかったので別れがつらかったわけでもないし、残念なことや悔しいことがあったわけでもないし、何だったんだろうと。
そこで、先の対談記事をみて、あーこれか!と思ったのです。
泣いた理由をあえて言うなら「淋しい」が一番近い気はしますが、虚無感、孤独感、憂うつ感といったものも混じっている感じで、ぴったりな言葉はない気がします。
説明できないけれど、確かに感じているものがある。
これを考えると、人が分かり合うって本当に難しいことなんだなと思いました。
みんな言葉にできないモヤモヤをかかえている。
そういう前提で人と接し、想像力を働かせる必要があるんだなと思いました。